前回「武蔵村山市は東京都で唯一、固定軌道(鉄道やモノレール)による交通機関がない市」とお伝えしました。では本当にこの地には、固定軌道による交通機関はなかったのでしょうか。第4回は「軽便鉄道の記憶 1世紀を経て」です。
市誕生の遥か以前に
武蔵村山市は1970年(昭和45年)の市政施行によって誕生しました。実はその遥か以前まで歴史を遡れば、固定軌道による交通機関があったのです。それが「羽村山口軽便鉄道」です。
明治時代になって東京は急速に都市化が進み、水不足が深刻な問題となってきました。そこで東京府は、狭山の地に新しい貯水池(現在の多摩湖)を作り、羽村堰から多摩川の水を引くための導水管埋設工事を行うこととしました。
その時に敷設されたのが「羽村山口軽便鉄道」で、1921年(大正10年)のことでした。
貯水池は完成したものの東京の水不足は続き、1928年(昭和3年)にはさらにすぐ隣に人造湖(現在の狭山湖)を造成することとなりました。
今度は多摩川から砂利を運搬するため、再び「羽村山口軽便鉄道」が活用されました。
近代日本を築いた立役者
まだトラックやダンプカーなどの大型輸送用機器があまり普及しておらず、“人力”が主要な運搬手段だった時代、軽便鉄道は大きな戦力でありました。明治以降の近代日本を築き上げた最大の功労者といっても過言ではありません。
軽便鉄道はその名の通り、手軽で便利な鉄道のこと。現在の鉄道と比べればおもちゃのような交通機関でした。
それでも当時は産業界を支える逞しい存在として、日本各地に敷設されました。
動力源はディーゼル駆動で、機関車は現在のコンパクトカー程度の大きさであったと言われています。
廃線跡に沿って
「羽村山口軽便鉄道」の廃線跡は、今でも辿ることができます。瑞穂町のIHI前から北東に向けまっすぐに伸びる「野山北公園自転車道」がそれです。現在でも隧道として利用されている「横田トンネル」もその一部です。
廃線跡ブームとのことで、「羽村山口軽便鉄道」の軌跡を訪ね歩く観光客も多いと聞きます。
また多摩湖に抜ける廃線跡に沿って、新交通システムが営業運転されています。レオライナーと呼ばれる「西武鉄道山口線」です。
「三ツ木駅(仮称)」での出会い
もしレオライナーが「羽村山口軽便鉄道」廃線跡に沿って、武蔵村山市まで延伸されていたとしたら、狭山丘陵を含む巨大な観光商圏が武蔵村山市を中心に形成されていたかも知れない・・・いえいえ、それはいくら何でも“儚い夢の物語”でしかありません。
1921年に敷設された「羽村山口軽便鉄道」と、2020年以降に事業完成予定(年度未定)の多摩都市モノレール箱根ヶ崎延伸。
約1世紀を経て交差する過去と未来のふたつの固定軌道は、新しくできる予定の三ツ木駅(仮称)のすぐ近く、三ツ藤あたりで出会うことになります。
そんな歴史を感じながら、多摩都市モノレール箱根ヶ崎ルートの開通を楽しみに待ちたいと思います。
リンク
多摩都市モノレール箱根ヶ崎延伸 第1回「そのルートと新青梅街道の役割」
多摩都市モノレール箱根ヶ崎延伸 第2回「新しい駅名を勝手に考えてみた」
【参考文献・ウェブサイト】
東京圏における今後の都市鉄道のあり方について 交通政策審議会
ダウンロード2MB
武蔵村山市「新青梅街道沿道地区まちづくり計画案」
ダウンロード21MB